北越戦争(ほくえつせんそう)とは戊辰戦争の局面の1つとして、長岡藩(現・新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘である。
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背景
慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。
長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロシアの商人・スネル兄弟を通じて独自に当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国強兵に努めていた。また河井の指導の下、恭順派の安田鉚蔵[1]らを退け藩論を武装中立論に統一していた。会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽越列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。
小千谷談判
5月2日(6月21日)、河井は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂する。5月4日(6月23日)、長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。
戦闘
地政的には奥羽越列藩同盟側は新潟港に武器弾薬の調達を頼っており、ここを制圧することは新政府軍にとって最重要課題であった。新潟港には会津藩兵・米沢藩兵らの旧幕府軍が警備と防御のため駐留していた。また新潟を制圧することにより、庄内方面及び阿賀野川を通じ会津方面へのルートを扼する事が出来た。
小千谷談判の決裂後、長岡藩は摂田屋(長岡市)の光福寺に本陣を置き、先に新政府軍が占領していた榎峠(長岡市?小千谷市)を攻撃して奪回する。新政府軍は奪取された榎峠を攻撃するため、朝日山(小千谷市)の確保を目指し準備を進めた。山県が前線を離れた留守の間に時山直八が攻撃を開始し、朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎率いる桑名藩兵と長岡藩兵と戦うが時山は戦死し、新政府軍は敗走する。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。新政府軍は小藩である長岡藩の頑強な抵抗によって被害を出しつつあった。
膠着した戦局を打破すべく新政府軍は5月19日に与板藩の御用商人による船の援助により信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。しかし新政府軍に追撃する余力が無かったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。その後今町(見附市)を奪回し、新政府軍と睨みあった。八丁沖の攻防の末に7月24日(9月10日)、同盟軍は長岡城を奪還し、薩長軍は敗走した。一度落城した城が奪還されるのは軍事的に異例の事態であった。この事態に新政府軍は混乱状態に陥り指揮は迷走した。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。
わずか5日後の7月29日(9月15日)、新政府軍は再攻勢をかけて長岡城を再占領する。同日、会津藩兵・米沢藩兵らの守る新潟が陥落し、越後の全域は新政府軍の支配下に入った。8月16日(10月1日)、河井は会津へ落ち延びる途中で膝の傷から破傷風を併発し会津塩沢(只見町)で死去した。これ以降、旧幕府軍と新政府軍の戦いは東北地方に中心を移した(会津戦争)。
上野戦争(うえのせんそう, 慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。
抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。
新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。
5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は瓦解する。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。
戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。
円通寺に残る黒門戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。
戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。