2009年06月29日

人口で都市の規模を計ろうにも

人口で都市の規模を計ろうにも、先進国の大都市では、職住分離が進んでいる場合が多く、中心自治体の範囲と都市機能に主に携わる人々の居住地の範囲が必ずしも一致していないことが多い(例:千代田区の夜間人口は約4万4000人なのに対し、昼間人口は約85万人)。そのため、都市の規模を表すために、自治体の人口、人口集中地区(DID)の人口、都市圏の人口など、各種の人口指標が存在する。

また、経済に関する統計値や、経済力が端的に現れると見られる中心業務地区(CBD)や都心の大きさを以って都市の規模と見る向きもある。
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「大都市」といった場合には、名目(人口と面積)ではなく、実質(中心市街地の機能や密度)が過度に集中している都市であり、一般に「過密都市」と呼ばれる都市を指す。一個の媒体(城・港など)から端を発して、それが巨大化したのが特徴的である。また、商業・交通・娯楽など、全面において充実度が高い。日本の総務省は、政令指定都市を指して大都市としている[要出典]が、これに特別区である東京の23区を加える場合もある。

また、チューリッヒやブリュッセルのように、都市規模はさほど大きくない場合でも、国際機関や多国籍企業の中枢が集積する世界都市(グローバル都市)を「大都市」としてみなす場合もある。

日本の例:東京特別23区、政令指定都市17市
アジアの例:ソウル、釜山、北京、上海、香港、台北、バンコク、マニラ、シンガポール、ジャカルタ、ムンバイ、デリーなど。
アジア以外の例:ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク、メキシコシティ、サンパウロ、シドニー、ロンドン、マドリード、パリ、ハンブルク、アムステルダム、モスクワ、カイロ、ダーバン、ブエノスアイレスなど。

2009年06月11日

森田療法(もりたりょうほう)は1919年(大正8年)に

森田療法(もりたりょうほう)は1919年(大正8年)に、森田正馬により創始された精神療法(心理療法)である。代表的な日本製の精神療法として知られる。神経症を専門的に治療の対象とし、入院治療が主流であるが、外来治療が行われることもある。現在では日本だけでなく、世界20カ国以上で紹介されている。

森田学説は、主として2つの仮説からなる。 ひとつめは、ヒポコンドリー性基調説である。 ヒポコンドリーとは、ふとしたきっかけで不安感を覚え、心気症になりやすい性質のことである。 ふたつめは、精神交互作用説である。 これは、不快な感覚に対して注意を集中すればするほど、不快感が増大することをいう。例えば、大事な用事がある時に限って下痢になってしまい、「下痢になってはいけない」と思えば思うほど下痢がひどくなるなどである。
サンバ (ブラジル)
土木工学
ラグビー
早食い・大食い
ボウリング
融資
パルクール
人材派遣
綱引き
株式
宮沢賢治集
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高知の湯めぐり
世界歴史
葬祭マナー
麦茶百科
四季の祭り
秋田の情報
リス情報
アイス工房

入院治療は、4つの時期に区分される。

第一期 絶対臥褥(がじょく)期
患者を個室に隔離し、食事・排泄時以外の活動を制限して布団で寝ているようにさせる。
第二期 軽作業期
臥褥時間を減らし、外界に触れさせ、軽作業をさせたりする。
第三期 重作業期
睡眠時間以外はほとんど何かの活動をしているという生活にし、肉体的な重作業を行う。
第四期 社会生活準備期
日常生活に戻れるよう、社会生活訓練を行う。
上記の課程を1~3ヶ月間程度かけて行い、治療を終結する。入院治療については森田療法専門医の指導のもとで行われる。

外来治療は、面談と患者の記録してきた日記に対する添削が主である。医師は、日記へのコメントやアドバイスを通して、患者が自分自身の心理的な囚われに気づくことを促す。患者自身もこの気づきをきっかけに、日常生活における行動パターンを自ら修正していく。

治癒に到るまでの期間は、3ヶ月から数年と個人差がある。

入院治療、外来治療ともに、治療効果を得るには、患者自身の「治したい」という意思が重要であり、このような心構えがないと、治療の過程で脱落しやすい。 森田療法は、神経症の症状を「病気」として治すのでなく、患者自身の気づきと行動パターンの修正を通じて、神経症の症状を受け入れていくことで治癒に到る治療法と言える。

他の療法と比べると、厳しく感じられる治療法のため、一部の患者には敬遠される場合もある。しかし、神経症に対する治療効果と「禅」にも通じる東洋思想的な側面から、日本だけでなく、中国、アメリカ等にも広がりを見せている。

2009年06月07日

暴走族が乗る車両は改造が施されることが通例で

暴走族が乗る車両は改造が施されることが通例で、騒音規制や二輪車・四輪車の規格・保安基準に違反する違法改造である場合も少なくない。共同危険型暴走族は装飾性に重点が置かれる「カスタムカー」のスタイルを取るのに対して、違法競走型暴走族は走行性能の向上を目的に行われる「チューニングカー」のスタイルとなっている。また、共同危険型は意図的に騒音を大きくするための改造が行われ、違法競走型の場合も性能向上が結果的に騒音を生むため、どちらの車両でも一般車と比べて騒音性が高い。共同危険型の車両は「族車」という俗称で呼ばれることがある。
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元になる車両はどちらも国産車が中心になっている。共同危険型では希少な1980年代の旧型車が二輪・四輪共に人気が高く、四輪車は3ナンバーのセダン(特にFR車)が多いが、他にもワゴン車を派手に改造・装飾する「バニング」や、高級セダンを中古で購入し独特の改造を施す「VIPカー」と呼ばれるものなど、それぞれの嗜好に応じて多様な車種が用いられる。違法競走型では、速さを競う必然上から走行性能上位車種に限定され、二輪車はスーパースポーツやプロの競技用車両をスペックダウンした「レーサーレプリカ」、四輪車の場合は、国内自動車メーカーは殆ど本格的なスポーツカーを販売していないため、それに準ずるスポーツセダンやライトウェイトスポーツなどの「スポーティーカー」が中心となっている。車両価格が高価なため少数派ではあるが、海外のスポーツカーに乗っている者も存在する。

2009年04月24日

言葉狩り

言葉狩り(ことばがり)は特定の言葉の使用を禁じる社会的規制を否定的に表現した言葉。

その社会で支配的なイデオロギーに対立するイデオロギーの用語が過度に規制された場合や、特定の国、被差別集団の抗議に対してマスコミ等がその用語を放送禁止用語として自主規制をした場合に、これを行き過ぎとして揶揄または否定的にとらえる文脈で使用する。 差別語に関連して用いられる場合はマスコミ各社、教育機関、政府が差別語の不使用という点で一致していることからはじまった不使用運動が揶揄または否定的にとらえる文脈でこのように呼ばれる。 また、背後にはその後を差別語とみなすか否かの議論もからみあう[要出典]。

現代日本では主にいわゆる「差別用語」とされる語を一般的な用語に言い換える。言葉狩りという語はこれを強制する風潮を指し、実際に言い換えを筆者が拒否する場合には出版社や放送局などがその文章を雑誌に掲載しないことがある。このことから出版後に訴訟が起きて用語使用の是非が議論された例もある。

何をもって言葉狩りとするかは、差別そのものと同様、用語が使用された場合ごとの関係者の主観に基く部分が大きい。規制が過剰あるいは不適切と考える立場からそのような用語規制を否定的な意味合いで言葉狩りと呼ぶ。

言い換え
ある差別表現が使用される歴史的・社会的文脈を無視した言い換えが強制される場合には表現の自由が侵害されることにもなりかねず、特に文学作品など表現の独自性が問われる分野で問題になる。この場合その表現(描写などを含む)が人権侵害にあたるか否か及び公共の福祉に反するかどうかが問われねばならないが、しばしば感情的に扱われ、耳慣れない新語の不自然さや人権擁護団体の感情的な論調が風刺されることがある。差別表現を批判する側からも、言葉狩りによる単なる用語の言い換えや使用禁止を行うだけでは差別の実態を有耶無耶にする事になり、真の差別撤廃から遠ざかる事になる、という批判がある。

一般的に差別表現は差別の結果生まれるものであり、差別の原因ではない。一見言葉が原因で差別が生まれると思われるときも、基本的には差別感情が先に存在する。その点を看過し、言葉という枝葉末節にこだわるあまり、差別の実態という本質を見失う。すなわち、差別を解消するために代替用語を用いても、差別感情が解消しない限り代替用語自体が差別用語化する可能性がある。代替用語がまた差別用語となる一例として、学校で備品の管理や設備の維持にあたる人への用語問題が挙げられる。「小使いさん」との呼び方は差別的だとして「用務員」と言い換えられた。しかし現在ではその「用務員」も差別的とされるようになり、「校務員」や「管理作業員」といった新造語に置き換える動きがあるが、その呼称の対象に対する意識は変化していないという批判がこれにあたる。用語を用いる側と用いられる側の意識の問題であるだけに、用語の言い換えのみをもって意識の変革を求めることは容易ではない。同様に「かたわ」などを「身体障害者」に言い換えたものの、短縮形の「身障」を含め、既に差別用語化しているのが実情である。これは「障害者」を「障碍者」(国語としては代用文字を元に戻すだけ)、あるいは「障がい者」(単に一部を平仮名にしただけ)に変えようという児戯的な運動では解消できない。また、メクラフランジ(配管の流れを止める端末の円盤)など一般人が使わない業界用語は対象となることがなく使い続けられているし、逆にあまりに慣用化されたブラインド(盲のという意味で)などは普通に使われている。(先のメクラフランジも日米英でブラインドフランジとも呼ぶ)

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次に漫画『北斗の拳』にて主役が太った悪役に発した「豚は屠殺場に行け」が変更され、新版では「ブタはブタ小屋に行け!」「ブタと話す気はない!」との表現になっており、アニメではそれすらもなくなっていた。これは屠殺場が差別用語であるとして、集英社側が変更したものだが、ファンの間では言葉狩りであると抗議するものもいる。 また、大江健三郎の『沖縄ノート』には「屠殺者」という表現(しかも存命中の実在の人物に対して使用されている)が存在するのに、こちらは問題とされていないことから「マンガでは許されないのに有名作家の作品では許されるのは、それこそが差別である」という意見もある。 更にドラえもんでも「狂時機」と言うひみつ道具が存在するが、『狂』と言う字が『驚』に変更され、本来の意味(時間の流れを狂わせる)をなさなくなってしまった。

一部の団体には言葉狩りを行うことで差別的な人間を矯正したと自己満足に陥る、あるいは自らの権力欲を満足させているだけであるとの批判もある。

上記のような「言い換えを行っても差別感情を解消することは不可能」とする言い換え否定論に対し、肯定論側の反論として以下のようなものがある。すなわち、発話者に差別感情が無くとも、被差別者の立場に立てば差別用語そのものによって傷つけられる可能性があるというものである。

ただし、ポリティカル・コレクトネスの運動においても、一部に過剰とも言える言い換えが存在することに批判を浴びた経緯があり、それを風刺した『政治的に正しいおとぎ話』のような本がベストセラーになった。

このように、ある語に対する規制が言葉狩りかどうかは当事者の主観に左右される部分が大きく、差別全般についての考察なしに規制という事象のみをとらえて論じることは本質から外れた議論になりかねない。最初から否定的な意味合いを含んでいる言葉狩りという言葉には、すでにその使用によって使用者の立場を明らかにしてしまっていると言うことができる。

2009年04月22日

ノルマン人

ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ。(同項目を参照。)

略史
8世紀後半から活発化。9世紀にはヨーロッパ各地を侵略し、次のような国々を建国した。

ヴァイキングが住み着いたフランス北西部のノルマンディーのフランス人もノルマン人と言う。「ノルマンディー公国」を建国し、11世紀にイングランドに征服王朝「ノルマン朝」を建国した(ノルマン・コンクエスト)。その一部は、イタリアへ侵攻し、南イタリアにシチリア王国(オートヴィル朝)を建国するが、後にスペイン軍によって滅ぼされる。
グレートブリテン島、アイルランド島をたびたび侵略した一派は、デーン人、ノース人と呼ばれる。ノース人は北方ドイツやフィンランドをはじめ、西はカナダ、東はウクライナにまで進出した。彼らの一部は地中海へ進出し、ノルマンディーから来たノルマン人と合流している。
ロシア平原(ガルダリケ)に侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれる。ヴァランジャンとも言う。彼らはこの地で「ノヴゴロド公国」、「キエフ大公国」を建国した。さらに黒海に進出し、東ローマ帝国のコンスタンティノポリス侵攻も行った。ただし彼らは、商業目的も兼ねていた。また、北欧から東ローマへ赴いて傭兵となり、皇帝の親衛隊として活動したノルマン人も多い。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

8世紀から9世紀にかけ、ヴァイキングの故地スカンディナヴィア半島を中心にデンマーク、スウェーデン、ノルウェーと言った王国が建国され、10世紀には、アイスランドが成立した。北欧諸国家を建国したノルマン人たちは、北欧神話、ルーン文字を捨て、キリスト教に改宗し、キリスト教世界(カトリック教会)に属する事となった。
アイスランドに進出したノルマン人の中には、大西洋を越え、グリーンランド、アメリカ大陸(アメリカ大陸の発見)へ達する者もいた。
地中海に進出したノルマン人たちは、ローマ教皇の唱えた十字軍にも参加した。その中には、1099年にアンティオキア公国を建国した者もいた。
ヴァイキングが終了した後、彼らは、北欧において独自の国家を建設し、中世以降、デーン人、スヴェーア人、ノース人、アイスランド人へと分離し、ノルマン人としての概念は薄れていった。しかし彼らの言語である「古ノルド語」は、16世紀頃まで使用されていた。ノルマン人と言う呼称が復活するのは、19世紀である。この時代、つかのまではあったが、彼らのナショナリズムが昂揚し、ノルマン人を冠した「汎スカンディナヴィア主義」が沸き上がった。しかし同じゲルマン人であるドイツ人が掲げた「パン=ゲルマン主義」(ドイツ統一)に敗れ、ノルマン人としての一体化、統一は失われたまま現在に至っている。20世紀、第二次世界大戦後、北欧諸国が北欧理事会を設立したが、これは北欧諸国の協調と協力のための国際組織で、ノルマン人の合同と言うわけではない。

2009年04月05日

音楽史

音楽史 (おんがくし) とは、音楽の歴史のこと。それぞれの音楽ジャンルにそれぞれの歴史がある。また、音楽学の分類のひとつと考える場合もある。

音楽の起源 [編集]

音楽の歴史は有史以前まで遡ることが出来る。おそらく最初の音楽は歌声である。あるいは手拍子を伴ったかもしれない。原初の楽器は打楽器であったと推測できる。リズムが生まれたが、メロディーやハーモニーと呼べるものを生みだすのは困難であっただろう。ごく古い管楽器としては、およそ3000年前の地層から出土した骨を利用した笛があり、現代のリコーダーのような形をしている。古代の音楽は祈りや祝祭、あるいは狩りや儀式など当時の生活に密着したものであったと想像できる。

生物学的な音楽の起源 [編集]
音楽は人類共通のものであり、あらゆる文化において存在する。さらには、生まれたばかりの赤ん坊であっても、音楽に対する関心を示すことから、ヒトという種は、音楽に対して何らかの遺伝的基盤を備えていると思われる。

一方、ヒト以外の動物には音楽がほとんど存在しない。鳥類や海獣類のなかには、発声を応用した「歌う」種がわずかにあるばかりである。また、これらのヒト以外の動物種による「歌う」行動は、音楽の一形態と解釈するよりは、別の機構から発現した類似の一形態と考える方が、多くの場合妥当である[1]。特に霊長類には、「歌う」種すら乏しく、ヒトの音楽の起源に関しては、独自の進化により獲得したものだと考えられる。

人類の音楽的能力が高いことに関しては、これまで幾つかの説が誕生している。音楽の上手い個体が異性に好まれるため、音楽的資質の高い遺伝子が選択されたという「性選択説」[3]や、最近では、人類の言語に対する認知能力が進化するにともない、それが副産物的な能力として人類の音楽的能力も高めたという「帰無仮説(null hypothsis)」が有力な説である。ただし、音楽の起源に関する遺伝的研究は未発展であり、全ての説がデータとして裏づけのない推察の上に成り立っており、仮説の粋を出ていない。

各地域の音楽史 [編集]

日本の音楽史 [編集]
邦楽・東京芸術大学・深江文化村も参照のこと。(書きかけ)

日本の音楽史家 [編集]
吉川英史 *團伊玖磨
小泉文夫 *山田耕筰
田辺尚雄
瀧廉太郎

西洋音楽史 [編集]
ここでは、主には西洋音楽、特にクラシック音楽の歴史を解説する。

古代西洋音楽
ギリシャ時代の音楽
中世西洋音楽
6世紀頃から15世紀にかけての音楽を指す。これ以前は古代音楽になるが、楽譜が残されていないため明確ではない。
宗教音楽
宮廷音楽
ルネサンス音楽
14世紀頃から16世紀にかけて作られた音楽の総称。
バロック音楽
17世紀初頭から18世紀中頃までの音楽。また、中世?バロック時代の音楽を古楽と総称する。
古典派
18世紀後半を中心とする音楽。
ロマン派
ほぼ19世紀のヨーロッパを中心とする音楽。
国民楽派
ロシア5人組
印象派
新古典派音楽
フランス6人組
近代音楽
現代音楽と同じ区分に含まれるとされることも多い。
現代音楽
西洋クラシック音楽の流れにある20世紀以降の音楽。時代区分ではなく、前衛音楽としての形式を指すとも考えられる。
楽譜の歴史については楽譜の項を、楽器の歴史については楽器の一覧を、年表については西洋音楽年表を参照せよ。

西洋音楽史家 [編集]
辻荘一
野村良雄

その他の地域の音楽史 [編集]
音楽のジャンル一覧、民族音楽も参考にせよ。(書きかけ)

その他の地域の音楽史家 [編集]
岸辺成雄

ポピュラー音楽の音楽史 [編集]
ポピュラー音楽も参考にせよ。(書きかけ)

音楽史ということばの用法について [編集]
レコードなどにおける「音楽史」というジャンルは、バロック音楽よりも古い西洋音楽を示す。

サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

2009年03月21日

12号御料車

12号御料車は、1924年(大正13年)1月に摂政宮(昭和天皇)の御乗用として大井工場で製造されたものである。

車体は大型客車に属するダブルルーフの木製車で、3軸ボギー台車を履いている。全長は20.06m、車体幅は2.8m、高さは3.924m、自重は36.42tである。

車内は前位側から次室、御座所、御剣璽奉安室、休憩室、化粧室に区分されており、御座所が車体中央から前位よりに位置しているのが特徴である。また、御座所、次室には廊下がなく、後に製造される鋼製御料車の先駆けともいうべき特徴も有している。また、答礼の際、顔がよく見えるよう側窓の上辺位置が10cm上げられ、レール面上2.844mとされている。外装については軒周りの飾りがなくなり、金線による装飾も簡素なものとなっている。

内装は、従来の御料車に見られた格天井や蒔絵、螺鈿などの装飾をやめて、簡素な洋風となった。上天井は1枚の裂地張り、下天井から側壁にかけては透かしの裂地張りで窓下はクスの柾材を使用している。妻板上方には岡田三郎助の描いた野菊とバラの油絵が掲げられ、その下には暖房管を隠すために設けられたマントルピースがあり、各宮家から献上された馬の置物が置かれている。

皇太子用として製造されたため、当初は御剣璽奉安室はなかったが、昭和天皇即位後も御常用とされたため、休憩室の一部を改造して設置された。また、1928年(昭和3年)の昭和天皇の御大礼の際には、じゅうたんや椅子、クッション類が更新されている。

本車は、1923年(大正12年)8月には車体がほぼ完成し、塗装職場に回されるところであったが、同年9月1日に発生した関東大震災の影響や、朴烈事件により設計を変更して御座所の両側に3mm厚の鉄板を貼るなどしたため、工期が遅れ、1924年1月の完成となった。

本車は、1928年(昭和3年)の昭和天皇の御大礼にお召車として使用され、1932年(昭和7年)に鋼製の1号御料車(2代)が完成した後も予備車として使用された。1959年(昭和34年)に廃車となり、大井工場の御料車庫に保管された。また、1969年(昭和44年)10月に鉄道記念物に指定されている。
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム

長らく引き続き東京総合車両センターに保管されていたが、2007年10月14日、さいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。

2009年03月06日

クリストフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)

水上戦闘艦
セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ

巡洋艦
草創期の巡洋艦
クリストフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)
フラヴィオ・ジョイア (Flavio Gioia)
アメリゴ・ヴェスプッチ (Amerigo Vespucci)
サヴォイア (Savoia)
クリストフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo)

防護巡洋艦
ジョヴァンニ・バウサン (Giovanni Bausan)
エトナ級 - 3隻
エトナ (Etna)
ストロンボリ (Strombori)
ヴェズーヴィオ (Vesuvio)
ドガリ (Dogali)
ピエモンテ (Piemonte)
エットーレ・フィエラモスカ (Ettre Fieramosca)
ロンバルディア級 - 7隻
ロンバルディア (Lombardia)
カラブリア (Calabria)
エルバ (Elba)
エトルリア (Etruria)
リグーリア (Liguria)
プーリア (Puglia)
ウンブリア (Umbria)
リビア (Libia) (旧・《ドラマ (Drama)》)
カンパーニア級 - 2隻
カンパーニア (Campania)
バジリカータ (Basilicata)

偵察巡洋艦・通報艦
クアルト (Quarto)
ニーノ・ビクシオ級 - 2隻
ニーノ・ビクシオ (Nino Bixio)
マルサーラ (Marsala)

水雷巡洋艦・水雷砲艦
トリポリ (Tripoli)
ゴイト級 - 4隻
ゴイト (Goito)
コンフィエンツァ (Confienza)
モンテベロ (Montebello)
モンツァンバノ (Monzambano)
パルテノーペ級 - 8隻
パルテノーペ (Partenope)
アレツーサ (Aretusa)
カラタフィミ (Calatafimi)
カプレラ (Caprera)
エウリディチェ (Euridice)
イリデ (Iride)
ミネルヴァ (Minerva)
ウラニア (Urania)
アゴルダト級 - 2隻
アゴルダト (Agordat)
コアティト (Coatit)

装甲巡洋艦
マルコ・ポーロ (Marco Polo)
※ 改エトナ級防護巡洋艦から設計変更
ヴエットール・ピサニ級 - 2隻
ヴエットール・ピサニ (Vettor Pisani)
カルロ・アルベルト (Carlo Alberto)
ジュゼッペ・ガリバルディ級 - 3隻 (4隻設計変更) ※ 1?5番艦は爾・西が買収、別に改型2隻を爾→日が買収
ジュゼッペ・ガリバルディ (Giuseppe Garibaldi)
ヴァレーゼ (Varese)、フランチェスコ・フェルッキオ (Francesco Ferruccio)
※ 設計変更:
9?10番艦→ピサ級へ
11?12番艦→サン・ジョルジョ級へ
ピサ級 - 2隻
ピサ (Pisa)、アマルフィ (Amalfi)
サン・ジョルジョ級 - 2隻 ※ 後に戦艦へ
サン・ジョルジョ (San Giorgio)
サン・マルコ (San Marco)

軽巡洋艦
タラント (Taranto)
※ マクデブルク級《シュトラスブルク (Straßburg)》(ドイツ海軍)
アンコーナ (Ancona)
※ グラウデンツ級《グラウデンツ (Graudenz)》(ドイツ海軍)
バリ (Bari)
※ エルビンク級《ピラウ (Pillau)》(ドイツ海軍)
ヴェネチア級 - 2隻 (旧・オーストリア、改アドミラル・スパウン級)
ヴェネチア (Venezia) ※ 旧《サイダ (Saida)》
ブリンディジ (Brindisi) ※ 旧《ヘルゴラント (Helgoland)》
アルベルト・ディ・ジュッサーノ級 - 4隻
アルベルト・ディ・ジュッサーノ (Alberto di Giussano)、アルベリコ・ダ・バルビアーノ (Alberico da Barbiano)、バルトロメオ・コレオーニ (Bartolomeo Colleoni)、ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ (Giovanni delle Bande Nere)
ルイージ・カドルナ級 - 2隻
ルイージ・カドルナ (Luigi Carorna)
アルマンド・ディアス (Armando Diaz)
ライモンド・モンテクッコリ級 - 2隻
ライモンド・モンテクッコリ (Raimondo Montecuccoli)
ムツィオ・アッテンドーロ (Muzio Attendolo)
エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級 - 2隻
エマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ (Emanuele Filiberto Duca d'Aosta)
エウジェニオ・ディ・サヴォイア (Eugenio di Savoia)
ルイージ・ディ・サヴォイア・デュカ・デリ・アブルッツィ級 - 2隻
ルイージ・ディ・サヴォイア・デュカ・デリ・アブルッツィ (Luigi di Savoia Duca degli Abruzzi)
ジュゼッペ・ガリバルディ (Giuseppe Garibaldi)
コンスタンツォ・チアーノ級 - 0隻 (2隻計画中止)
※ 計画中止:
コンスタンツォ・チアーノ (Constanzo Ciano)
ヴェネツィア (Venezia)
エトナ級 - 0隻 (旧・泰《タクシン》級、2隻建造中止)
※ 建造中止:
エトナ (Etna) ※ 《タクシン (Taksin)》
ヴェズーヴィオ (Vesuvio) ※ 《ナレスアン (Naresuan)》
カピターニ・ロマーニ級 - 4隻 (8隻建造中止)
アッティリオ・レゴロ (Attilio Regolo)
スキピオーネ・アフリカーノ (Scipione Africano)
ジュリオ・ジェルマニコ (Giulio Germanico) ※ 後に《サン・マルコ (San Marco)》
ポンペオ・マーノ (Pompeo Magno) ※ 後に《サン・ジョルジョ (San Giorgio)》
※ 建造中止:
カイオ・マリオ (Caio Mario)
クラウディオ・ドルソ (Claudio Druso)
クラウディオ・ティベリオ (Claudio Tiberio)
コルネリオ・シラ (Cornelio Silla)
オッタヴィアーノ・アウグスト (Ottaviano Augusto)
パオロ・エミリオ (Paolo Emilio)
ウルピオ・トライアーノ (Ulpio Traiano)
ヴィプサニーオ・アグリッパ (Vipsanio Agrippa)

重巡洋艦
トレント級 - 2隻
トレント (Trento)
トリエステ (Trieste)
ザラ級 - 4隻
ザラ (Zara)
フューメ (Fiume)
ゴリツィア (Gorizia)
ポーラ (Pola)
ボルツァーノ (Bolzano)

ヘリコプター巡洋艦
アンドレア・ドリア級 - 2隻
アンドレア・ドリア (Andrea Doria)
カイオ・デュイリオ (Caio Duilio)
ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto)

偵察艦
カルロ・ミラベロ級:後に駆逐艦に変更
レオーネ級:後に駆逐艦に変更
ナヴィガトリ級:後に駆逐艦に変更

駆逐艦
アウダーチェ
ランポ級
セラ級
ナザリオ・サウロ級
トゥルビーネ級
ダルド級
第一グループ(フレッチア級)
第二グループ(フォルゴーレ級)
マエストラーレ級
アルフーレド・オリアーニ級
ソルダティ級
第一グループ(カミチア・ネラ級)
第二グループ(ソルダティ級)
(※未竣工)コマンダンテ・メダリエ・ドロ級
アルティリエーレ級
ファンテ級
インドミト級
インパヴィド級
デ・ラ・ペンネ級
アウダーチェ級
アンドレア・ドリア級
エスペロ (駆逐艦)
ゼフィーロ (駆逐艦)
フルミーネ (駆逐艦)
ボレア (駆逐艦)
ランポ (駆逐艦)
リベッチオ (駆逐艦)

フリゲート
チェンタウロ級
カルロ・ベルガミーニ級
ルポ級
アルティリエーレ級(ソルダティ級)
マエストラーレ級
FREMM計画艦

コルベット
ガッビアーノ級
アルバトロス級
ヴェデッタ
センティネッラ
ピエトロ・ディ・クリストファロ級
ミネルヴァ級
コマンダンテ級

スループ
エリトリア

潜水艦
通常動力型潜水艦
バリッラ級
エットーレ・フィエラモスカ級
アルキメーデ級
ガリレオ・ガリレイ (潜水艦)
グラウコ級
ピエトロ・カルヴィ級
マルチェロ級
ベネデット・ブリン級
コンソーレ・ジェネラーレ・リウッツィ級
グリエルモ・マルコーニ級
アミラリオ級
エンリコ・タッツォーリ級
エンリコ・トーチ級
サウロ級
212A型 (サルヴァトーレ・トダロ級)

機雷戦艦艇
両用戦艦艇
揚陸艦艇
強襲揚陸艦
サン・ジョルジョ級 - 3隻
サン・ジョルジョ(L-9892 San Giorgio)
サン・マルコ(L-9893 San Marco)
サン・ジュースト(L-9894 San Giusto)

] 哨戒艦艇
哨戒・警備艦艇
水雷艇
スピカ級
アリエテ級
MAS (魚雷艇)

2009年02月14日

魔女のお茶会

遥か遠い昔 魔法使いと人間はひとつの世界に共存していた。 しかし考え方の違いから深まった溝は いつしか越えられない物になってしまう・・・・。 魔法使いの偉大な力を恐れた人間達は 魔女狩りを行い、彼らの存在をこの世から消そうとする。 魔法使いは人間達に絶望し、逃げ場を求めた。 その様子を見ていた神は魔法世界を作り上げ、 魔法使い達を移住するように促した。 こうして魔法使いは魔法世界に移り住み人間との交流を絶った。 人間は文明を魔法使いたちは魔導の力をと それぞれの道を歩みだすこととなる。

それから数百年。 魔法使い達はもう一度人間達を平和に暮らせないかと考えた。 そしてその掛け橋として若い世代の魔法使いを人間界に修行に出すことにした。 新しい世代同士で交流し何か大切な物を得て帰ってくるのではないかと考えたからだ。

こうして今年も三人の若い魔法使いが人間界へと降り立った。

ノナカロクスケ (のなか ろくすけ)声:神谷浩史(ドラマCDのみ)
主人公。乱暴で口は悪いが根はいい奴。割とマメな性格で、家事等もそつなくこなす。
ニー (にー)声:新千恵子
人間界へ修行に来た魔女。明るく天真爛漫な性格。簡単な初級魔法はおろか、ホウキにも乗れないというすさまじい落ちこぼれだが何故か留学が許可されている。
ユウヒメグミ (ゆうひ めぐみ)声:井上美紀
主人公の幼なじみ。学校ではしっかり者で通っているが、家ではかなりのグウタラで毎朝主人公に起こしてもらっている。
ドリル (どりる)声:西原久美子
人間界へ修行に来た魔女。大企業のお嬢様で魔法薬のエキスパート。飼い犬のポチに暴力を振るうなどヒステリックな一面を持つ。
ポチ (ぽち)
ドリルの飼い犬。魔法の実験台にされたり、暴力のはけ口になったりと割とハードな扱いを受けている。
ポニカ (ぽにか)声:宇和川恵美
人間界へ修行に来た魔女。魔法学校での成績はトップクラス。沈着冷静で超ドライ。合理主義的で、自分の事でさえ他人事のように話す。
マナムラマナム (まなむら まなむ)声:嶋方淳子
主人公のクラスメイト。大人しくて引っ込み思案。おまけに図書委員と三拍子揃っている。気が弱い自分を変えたいと思っている。眼鏡っ子。
ナナ (なな)
ファミレスのアルバイト。明るく、色々な意味で突き抜けた性格。事ある毎に主人公に干渉しようとする。実は・・・。
アキヲ (あきを)声:佐久間紅美
上級魔女。魔女達の引率役として人間界へやって来た。かなりいい加減でアバウトな性格な教師。過去に人間界に修行に来た経験が有り、恩人探しなどもしているようだ。コンシューマー版追加キャラ。
オキバキシオ (おきば きしお)
主人公のクラスメイト。成績優秀、運動神経良し、性格悪し。女子に優しく男子に厳しい学級委員で金持ちの坊ちゃん。
大航海 だいこん バント しじょう ハレー ポル国内 トップス アッチラ シャボン ラゴン リーマン ラグソール ラセボ カスト ボール リリヤン レーション マッシ セレナ インター キルン バターク ロスメン ダルコ スキャ イチク スピッ シック ジッグ アグラ ラストシ オフサイド ローアン ソース ノズル ジラフ ヱスビ ラインビ ガスボンポ テミズム マスター てんゆう スカーフ ストライ ション スト ロース バミュー デル チョウゲ

選定委員 (せんていいいん)
上級魔女。人間界行きにはなったが不安要素抜群のニーを監視しにやって来た。かなりの高齢で、人間に対しては否定的。
アイちゃん (あいちゃん)声:こやまきみこ

2009年01月28日

北越戦争

北越戦争(ほくえつせんそう)とは戊辰戦争の局面の1つとして、長岡藩(現・新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘である。
ドバイ こぼれ ジェネ 月姫 キョウチ プイン プリプラ ハンドミキ キオス ストック スイートピ バランサー キクイン パンフ モカシン フィズ クォリティ そうめい ジンフ トップ デフォル きょくひ サーチナビム 村雨国内 ジンジャ 東へ西へ マルデ まっかり きうい ハナニ プラナ アプレッ ディスコ コック プルラン カイト ネイビー お手玉 とちひめ フォッグ ピョンヤン 金魚草 ヨーロッパ デコバギー ジャンク ノキオ ニューハフ デントデー ドール よもぎ

背景
慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。

長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロシアの商人・スネル兄弟を通じて独自に当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国強兵に努めていた。また河井の指導の下、恭順派の安田鉚蔵[1]らを退け藩論を武装中立論に統一していた。会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽越列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。

小千谷談判
5月2日(6月21日)、河井は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂する。5月4日(6月23日)、長岡藩はやむなく奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。

戦闘
地政的には奥羽越列藩同盟側は新潟港に武器弾薬の調達を頼っており、ここを制圧することは新政府軍にとって最重要課題であった。新潟港には会津藩兵・米沢藩兵らの旧幕府軍が警備と防御のため駐留していた。また新潟を制圧することにより、庄内方面及び阿賀野川を通じ会津方面へのルートを扼する事が出来た。

小千谷談判の決裂後、長岡藩は摂田屋(長岡市)の光福寺に本陣を置き、先に新政府軍が占領していた榎峠(長岡市?小千谷市)を攻撃して奪回する。新政府軍は奪取された榎峠を攻撃するため、朝日山(小千谷市)の確保を目指し準備を進めた。山県が前線を離れた留守の間に時山直八が攻撃を開始し、朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎率いる桑名藩兵と長岡藩兵と戦うが時山は戦死し、新政府軍は敗走する。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。新政府軍は小藩である長岡藩の頑強な抵抗によって被害を出しつつあった。

膠着した戦局を打破すべく新政府軍は5月19日に与板藩の御用商人による船の援助により信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。しかし新政府軍に追撃する余力が無かったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。その後今町(見附市)を奪回し、新政府軍と睨みあった。八丁沖の攻防の末に7月24日(9月10日)、同盟軍は長岡城を奪還し、薩長軍は敗走した。一度落城した城が奪還されるのは軍事的に異例の事態であった。この事態に新政府軍は混乱状態に陥り指揮は迷走した。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。

わずか5日後の7月29日(9月15日)、新政府軍は再攻勢をかけて長岡城を再占領する。同日、会津藩兵・米沢藩兵らの守る新潟が陥落し、越後の全域は新政府軍の支配下に入った。8月16日(10月1日)、河井は会津へ落ち延びる途中で膝の傷から破傷風を併発し会津塩沢(只見町)で死去した。これ以降、旧幕府軍と新政府軍の戦いは東北地方に中心を移した(会津戦争)。

上野戦争(うえのせんそう, 慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。

慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。

抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した。

新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。

5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は瓦解する。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅した。

戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる。

円通寺に残る黒門戦いの結果、新政府軍は江戸以西を掌握した。この戦いに敗戦した彰義隊は有志により輪王寺宮とともに隠棲し、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港(現茨城県北茨城市)に着船。春日左衛門率いる陸軍隊等、一部の隊士はいわき方面で、残る隊士は会津へと落ち延びた。戊辰戦争の前線は関東の北の要塞であった宇都宮や、旧幕府勢力が温存されていた北陸、東北へ移った。

戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。